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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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「南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上——アメリカ公文書が従来説を大きく覆す」


南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上Dpq5IxSM
論壇net:南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上——アメリカ公文書「RG59-793.94/11631」が従来説を大きく覆す 犠牲者数は最大70~80万人近くまで
https://rondan.net/14536

ろだん 論壇net‏ @rondan_net

長江デルタ地帯で50万人殺したと自爆発言し、ヒトラーになぞられてしまったアメリカ公文章「RG59-793.94/11631」の所在が判明。週明けにも現物を確認する。 震えて待て。 南京大虐殺の犠牲者は「50万人」以上——アメリカ公文書「RG59-793.94/11631」が従来説を大きく覆す https://rondan.net/14536

南京大虐殺のさなか、アメリカから「やめろ」と抗議を受けた公文書「393.115/128」が発掘される https://rondan.net/14634

【南京大虐殺】日本軍の「組織的犯罪」を示すアメリカ公文書「793.94/12207」が発掘される——強姦・殺戮・略奪・放火の報告 https://rondan.net/14635

【南京事件】入城後の「虐殺行為」を報告するアメリカ公文書「793.94/12134」https://rondan.net/14679


仮装人殻 @bsKnockin

『南京事件』笠原十九司を読み始めたのですが「近衛首相と「支那膺懲」」のところで今も結構似てる気がするなあという気分になりました。

三章まで進んだ。南京に到達する前だけどひどい話になっている。

政府と一般市民についての説明のところは、やっぱり今とさして変わらないんじゃないかという気分になる。

読み終わった。きつい。

死傷者数がどうこう以前の問題で日本帝国は軍、政府、国民みんなダメだったって話だよねえ、これ。


2014.12.16 資料(旧日本兵が証言「南京は地獄だった」)
http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-13473.html

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以下、2015年に保存してあったものです。

S ・Kuroda

▼①南京虐殺は「銃であのような短期間での大量殺害は無理だ‥だからでっち上げだ‥」というネトウヨちゃんがいるね。5年前から調査している欧米科学者達が、死因は「水死が9割以上」と分析したよ。@hopkins201204 @px92777terurin @thiebun377

南京虐殺の最多殺戮方法は、巨大な南京城から長江を結ぶ16の地下路・水路(中世に建造ー幅約7m長さ2km)に南京市民を数千人単位で閉じ込め、城前の湖から大量の湖水使い、水路から長江へ流した@hopkins201204 @px92777terurin @thiebun377

「歴史を科学で証明する有志」というネイチャー主宰の科学団体、アウシュビッツも戦地も古代遺跡なども検証したよ。微量な人骨から、年齢・性別・死因etc ‥DNAなどをゲノム解析もしてる。@uminohana

731部隊の詳細な資料は、京都大学の展示場で見た。@px92777terurin: @hopkins201204 @thiebun377 731部隊の存在を知った時は衝撃でした。森村誠一著≪悪魔の飽食≫読みました。‥これをした人の中に戦後その反省もなく平気な人もいる


hopkins

外務省、日中歴史共同研究(概要) http://goo.gl/4r5XjB 南京虐殺も記述されている、外務省、報告書翻訳版、2010年 http://goo.gl/4cPpsf

性奴隷、南京大虐殺が記述されている、外務省の報告書2010年 http://goo.gl/4cPpsf 南京城内では2万件余りの強姦 勝手放題の強姦が性病を伝染させた 南京に慰安所を設置し、多数の中国人女性を強制的に日本軍の性奴隷とした 南京大虐殺の被害者総数は30余万人


George Amano ‏

何か偕行社が「南京大虐殺? そんなもんねーよ、皇軍兵士の証言集めて証明してやろーじゃねーか」と意気込んで証言を集めたら、「俺見た」「ごめん、俺やった」証言が続々と集まって、刊行した『南京戦史』が一級の証言史料になってしまったよーなwhttp://www.asagumo-news.com/homepage/htdocs/column/sungen/sungen150212.html "> http://www.asagumo-news.com/homepage/htdocs/column/sungen/sungen150212.html


日本軍は中国で何をしたのか?1
https://www.youtube.com/watch?v=6E8gAAFNDoI


| 歴史/古代史 | 12:18 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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日本の疑似伝統「大嘗祭」の予算27億円


沖縄を痛めつけているのは今も昔も日本という国。
その長が天皇です。
昭和天皇は沖縄を好きに使っていいと米国にあげてしまった。
平成天皇も同じ。人相だけ見れば昭和天皇より悪い。
(これについては後日書きます)

日本の伝統と思っているものは新しいもの。皇室行事は明治からの新設。宮中三殿も明治から。天皇が親祭する13の祭典のうち11は明治以降のもの。即位式や大嘗祭に使用された装束も平安時代以来の伝統的な衣装だと言われているが、これも嘘。

幕末までは唐服が大きな位置を占めていたが、明治維新後に全面的に排除して衣冠束帯と決めた。役人も皆、唐服を捨てて衣冠束帯となった。古来の典儀も唐制を模倣したもの。

伊勢神宮に天皇が参拝するようになったのも明治天皇から。神前結婚も1900年の皇太子の結婚からで、明らかにキリスト教の影響で生まれたもの。

近代の天皇制国家は今までの「神道」を新たに編成し直して、「国家神道」を形成し、「国民教化」の手段とした。その究極の目的は天皇支配の正当化にあり、そのために天皇制が日本古来の伝統であることを過度に強調することとなった。

この天皇制賛美は1945年の敗戦まであらゆる教育手段、マスコミなどを通じて徹底して行われた。多くの日本人は文字どおり、洗脳されつくされたといっても過言ではない。「日本の疑似伝統」その1より)


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Shin Hori‏ @ShinHori1

大嘗祭の天皇の衣服は、孝明天皇までは中国皇帝を模倣した赤い衣で、龍と北斗七星が描かれていた。明治になって中国風はやめろということになり下記写真のような衣冠束帯に変えた。近代になって創られた"伝統"の一例である。

【大嘗祭予算 前回より5億円増】 https://yahoo.jp/BTxCVf


宋 文洲 認証済みアカウント @sohbunshu

そのうち、また中国を模倣する


Tsukasa Jitoh‏ @Jitoh

この事実を忘れようとする利己的な人が増えましたが、日本の文化、伝統、言語、風習、宗教、思想、食、等すべて朝鮮半島経由の中国伝来です。現在も日本は中国の経済に強く支えられ依存しています。私は親や祖先を敬いたいので、中国や朝鮮に深い敬意と尊敬と感謝があります。



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時間がなくてまとめが途中になっていますが、過去記事です。

「日本の疑似伝統」その1
http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-18096.html
「日本の疑似伝統」その2
http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-18098.html
「日本の疑似伝統」その3
http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-18124.html
相撲の女人禁制は「疑似伝統」
http://cocorofeel.blog119.fc2.com/blog-entry-18358.html


| 歴史/古代史 | 23:34 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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日本にとって吉と出るか凶と出るか


三十三間堂が好きなこともあるけれど
とても気になるニュースです。

三十三間堂の神像と仏像の配置を入れ替える。
配置順も変わり、改名までされる。

今後の日本の行く末が決まるかもしれません。

問題はこれを誰が指示したのか、
84年前と全く同じなのか、少し違うのか、
創建された当時の姿をそっくり再現するのか、ですね。

三十三間堂7tjMTKVM
三十三間堂 国宝の風神・雷神像を配置換え 84年ぶり
https://mainichi.jp/articles/20180731/k00/00e/040/235000c

「京都市東山区の三十三間堂で、国宝の風神・雷神像と観音二十八部衆像の配置が1934年以来84年ぶりに改められた。後白河上皇のため平安末期に創建された当時の姿を再現したという。風神と雷神は左右が入れ替わり、二十八部衆像も13体が改名され、配置順も変わる「平成の大再編」となった。 ・・・」

国宝 三十三間堂  二十八部衆
http://ur0.work/Lk48

84年前は1934年(昭和9年)

昭和9年(1934年)の出来事
http://kiuchi.jpn.org/nob2/s09.htm


| 歴史/古代史 | 23:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「日本の疑似伝統」その3


「ケガレ」とは「気が枯れる」ことと私は考えます。
(土地のケガレも同じ)
そう考えれば月経やお産はケガレにならない。

ネットで他者を誹謗中傷したり、
ヘイトを垂れ流す人たちこそ、ケガレです。
彼らは人の気を枯らす。

mayu 139

■日本の疑似伝統::阿満利麿 明治学院大学国際学研究
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/1668/1/kokusai_8_1-22.pdf

2.ケガレの強調

三不浄

沖縄、奄美では経血を不浄とする考えはなく
沖縄には日本古代文化の原型が残っていると考えられるだけに
月経の不浄視は後代から成立してきたと著者。

ここに書かれている二つの相反する「イミ」は面白いですね。

非日常的な尋常ではない世界に対処する態度のイミ
尋常ではない世界には人にとって好ましい場合とそうでない場合がある
好ましい場合は積極的に近づき
好ましくない場合は近づかないようにする
前者が「斉み」、後者が「忌み」
こうした分化は奈良時代末期と言われているが
時代を下るにつれ「忌み」が「斉み」を抑えて圧倒的に強くなってくる

桓武天皇は歴代の天皇のなかでも中国皇帝を施行した代表的人物で、
宮廷の祭儀、儀礼を中国の制度にならって整備、
神祇祭祀に従う者に対しては徹底して凶事の忌避を求めた。

8世紀から9世紀初めにかけて成立した天皇をとりまく律令貴族の
神聖意識が伝来の「イミ」における禁制部分を異常に増加させる原因となった。
彼らの最大の関心事はもっぱら自らの神聖性を侵す恐れがあるケガレを
回避し続けることであった。

自らというのが重要。

高取正雄はこれをもって神道の成立とした、と著者。

この律令貴族の禁忌体系が中世になって農民に広がってゆく。
もともと「浄・穢」は日本固有のものではなく
万物を「浄・穢」に分類する古代インドの世界観に属するもの。

明治近代天皇制でこの「穢れ」が極端に強化されるようになる。
民間に伝承されるケガレ=穢れは日本史における
2度にわたる神権天皇制の産物だった。

墓地は自由に作れなくなった。

「喪中につき賀状辞退云々」の挨拶状も
天皇に仕える官吏から新しくはじまった過剰な禁忌意識。

「国家神道」は従来の神道を天皇中心に組み替えた国教。
憲法上の「信教の自由」に抵触しないようにたくみに
儀礼中心に構成され、「神道は宗教に非ず」という
詭弁のものに諸宗教の上に君臨した。
したがってその祭儀の禁忌意識は激化していく。

こうした禁忌意識は義務教育における
神社参拝を通じて国民の間で徹底されて行き、
昭和10年代になるとヒステリックな様相になってくる。

身だしなみをと整え…手の洗い方からはじまり
参拝の仕方など…神社へお参りする一連の作法。

「二礼二拍手一礼」も新しくできたもの。

神社の前を通り過ぎるときに敬礼したり
忌中の者は参拝を遠慮するなどもこの一環です。

昔からあったわけじゃない。

国家神道の中でも靖国神社がもっとも厳格だった。
病的なまでの清潔、手洗いが決められているそうです。

女性の穢れについても近代天皇制で強化された。

「二礼二拍手一礼」について
宗教学者の島田裕巳さんもこう語っています。

「神社に行くと、「二礼二拍手一礼」が正式な作法と強調されている。だが、そのやり方は、明治8年の「神社祭式」で定まったものがもとになっていて、明治以前には存在しなかった。明治以前の神仏習合の時代には、神と仏は同時に祀られていたので、合掌と拍手の区別はできない。」「これが江戸時代の伊勢神宮での参拝のしかたです。拍手ではなく、合掌だったことがよく分かります。天皇に対して拍手を臣下が打つ、あるいは天皇が神に柏手をうつということはあったようですが、それは特殊なことだったようです。」

つづく

次回は天皇「機軸」論


| 歴史/古代史 | 16:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「日本の疑似伝統」その2


興味があるのでもっと先まで読み進めているんですが
中途半端異になってしまうけれど(今朝も追記ましたが)
サクラの続きを少しアップしておきます。

mayu 135

■日本の疑似伝統::阿満利麿 明治学院大学国際学研究
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/1668/1/kokusai_8_1-22.pdf

日本人はいつの時代でも桜の花を
いさぎよい死に方の象徴だと考えてはこなかったし、
散る花だけを愛でてきたわけではなかった。

明治の近代天皇制下で軍人教育が進む中での新しい現象だった。

サクラの語源はさまざまだが、
田の神の依ります神座(カミクラ)であり、
稲の霊魂がこもっている花ということになろうと筆者。

地域によっては桜でなくても
苗代に種籾をおろすところに花が咲く植物はサクラと呼ばれた。

稲作に関わる人々にとっては、サクラは田植えの開始時に
田の神を招き、加護を祈るための、
豊作・凶作を占うための植物にほかならなかった。

花は豊作の予兆とされてきたから
いさぎよく散らずにできるだけ長く枝に留まって欲しいと願った。

だからこそ花見が真剣に行われてきた。

つづく

次回はケガレです。

| 歴史/古代史 | 23:18 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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