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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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私たちは本来、境目のない存在。その2


何度も同じようなことを書いていますが流れのついでなので書いておきます。
しかし説明の仕方がだんだん下手になってきているような気がするのは
自分の書きたいように書かずに説明しようとするからかもしれない。

IMG_1457.jpg


私たちが慣れ親しんでいる世界、目の前に広がっている世界は
実は漠然とした波動の大海であり、これが強固な物質にみえるのは、
脳がホログラフィックなもやもやを、森や川、人や動物、家や車など
おなじみのものに変換することができるからだと言われています。

だけどその脳もホログラム…だよ。

じゃ、どうやって実体のないもやもやとしたものを
手で触れるような固体にみせることができるのか?

肌で感じる感触などは「高度な四肢錯覚現象」なんだそうです。

脳のレンズを通してみると机や椅子としてあらわれる。
レンズがなければ干渉パターンのもやもやを経験することになる。

カール・プリブラムは「どちらも現実であり、現実ではない。」と言う。

これは机や椅子だけでなく、私たちの現実も同じで
まったく異なるふたつの側面を持っていることになる。

自分のことを空間を移動する肉体と考えることもできるし
ホログラフィックな宇宙に包み込まれた
干渉パターンのもやもやとみることもできる。

ボームのグリセリンとインクの実験を思い出す。

ボームは後者が正しいと考えている。
自分自身がホログラフィックな心/脳であり、
その自分自身がホログラフィックな宇宙・世界をみていると考えるのは
これもまた抽象概念なので、わけることはできないはずのものを
わけようとする試みだと言う。

ここにも先日の「私たちは本来、境目のない存在。」が重なってきます

ホログラムを考えると結局、インド哲学の「世界はすべてマーヤ(幻想)」に行き当たるって思わない?

2013.07.08 世界は本当は境目がない。

昨夜、入眠時に不思議な体験をしました。

頭が冴えていたので早く眠れるといいなと考えていたら
しばらくして体が左右にゆっくりとゆっくりとゴムのように伸びてゆく。
次にたくさんのマッチ棒で作られた立体の映像がみえた。
これも身体なの?って感じ。

片手を胸のあたりにもう片方をシーツに置いてたら
間もなく手が身体に溶け込んでしまいました。
境目がなく一体化しているから
何処から手なのか身体なのかわからない。
ゆっくりと手を離してみると手の感覚が戻りました。
手が場から生まれるという感覚。

また手を胸に置くと同じことがおきました。



| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム | 23:19 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ホログラムのどの部分にも


全体の画像が記録されているように、
宇宙のあらゆる部分は全体を包み込んでいる。


全体とはボームのいう「内蔵秩序」のことであり
それは物理学の「統一場」であり
ヴェーダの「純粋意識の場」であり
更にユングの「集合的無意識」もこれに近いと考えています。


| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム | 20:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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あらゆるものは


分割不可能な全体であり、「部分」の集まりではない。


ボーム「原子、電子、陽子、テーブル、椅子、人間、惑星、銀河などすべてのものが、全体的な運動からの抽象と考えられる。」 


| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム | 20:43 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「断片と全体」 3


断片と全体


デヴイッド・ボーム「断片と全体」より書き写し

PART 1 A 断片的な世界観を超えて

1ー断片化がもたらした現代の危機


・・・・・問題を取り扱いやすくするため、事物を分割しばらばらにして考えることは、実際にある程度までは必要かつ適切である。というのは、実際的な技術労働において実在(リアリティ)全体を一挙に取り扱おうとすれば、実在全体に圧倒されてしまうからである。それゆえ、特殊な研究テーマの形成や分業は、ある意味においては、進歩のための重要な一段階である。さらにその前段階としては、人間が自然と一心同体ではないという理解の成立が決定的だった。これによって、思惟の自律が可能となった。こうして自然的な限界に関して、まず最初に想像力の限界が、そして最終的には実際的労働における限界までが、克服可能になったのである。

それにもかかわらず、自らを環境から切り離し、事物を取り扱いやすい適当な大きさに分割する能力は、幅広い領域にわたって否定的で破壊的な結果を最終的にはもたらした。というのは、自分が何をしているのかという自覚を持たないままに、人びとは分割の過程を適切な限界を超えて拡大させたためである。分割過程は、本質的には物ごとを考える過程である。たとえば、穀物の種類ごとに土地をいくつかの畑に分割する場合のように、分割は、実用的で技術的な機能本位の活動領域において役立つ。しかしながら、人間が生きている世界や人間自身にまでその適用領域を拡大し、われわれの世界観においてまでこうした断片化的思考様式を採用するとなると、もはや分割を有用で便利なものと考えることはできなくなる。というのはそうした分割の結果として、互いに関連を持たないばらばらの諸断片から世界や人間が実際に構成されていると考えられるようになり、そのように経験しはじめることになるからである。

断片的世界観に支配された人間は、世界や人間自身をこの世界観にふさわしいように破壊しようと試みるようになる。あげくの果てにすべてのものがこうした世界観に対応するように見えはじめるのである。人々は、自らの断片的世界を正当化する、もっともらしい証拠を探しだす。ついに断片化は、人びとの意志や欲望から独立した自律的な存在であるかのように受け取られることになる。断片化をもたらしたのは、断片的世界観に従って行為している人間なのだ、という事実が見過ごされてしまうのである。

自律的な存在に見える断片化作用が引き起こすこうした結果に大昔から人びとは気づいていた。そのことは人間と自然の分割、人間と人間との間の分裂がなかった「黄金時代}という神話に投影されている。実際、人びとは、精神的にも肉体的にも、社会的にも個人的にも、全体性をつねに求め続けてきたのである。・・・・・つづく


| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム | 12:06 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「断片と全体」 2


断片と全体


デヴイッド・ボーム「断片と全体」より書き写し

PART 1 A 断片的な世界観を超えて

1ー断片化がもたらした現代の危機

以下に論じる主題は、「断片化と全体性」である。今日、この問題の考察が特別に重要となっている。というのは、現代では断片化が、社会だけではなく各個人にいたるまで広範囲におよんでいるからである。それによって、精神的混乱があまねく引き起こされている。明晰な認識が妨げられ、際限なく一連の問題が生じてきている。状況はひじょうに深刻であり、ほとんどの問題が未解決のまま放置されている。

芸術、科学、技術、人間労働一般が、それぞれさまざまな専門分野に分割されている。各専門分野は、お互いに他の専門分野とは本質的に異質であり、まったく関連をもたないと考えられている。こうした事態に対する不満から、学際的なテーマが掲げられるようになった。学際的なテーマによって、諸専門分野の統合が意図されている。しかし、学際的なテーマも、結局のところばらばらの専門分野を新たに付け加えたにすぎない。

また、一つの全体を成していた社会が分割され、ばらばらな独立諸国家、さまざまな宗教集団、政治集団、経済集団、人間集団が形成されることによって、社会は発展してきた。さらに、自然現象も社会と同じくばらばらの諸部分の集合体とみなされ、さまざまな人間集団によって搾取されてきた。同様に、各個人は、自らのさまざまな欲望、目的、野心、誠実さなどの人間的特徴に応じて、相反する多数のばらばらな諸要素に断片化された。その結果として、ある程度のノイローゼは不可避であるとさえ、誰もが思うようになってきた。それにもかかわらず、断片化の「通常の」限界を超えた人びとは、偏執病(パラノイド)や精神分裂病(ジソイド)などの精神病者とされている。・・・・・つづく


paranoid(パラノイド)
偏執症(患者)の; 誇大妄想的な; 病的なほど疑り深い

以前も書きましたが、
鍼の先生が仲の悪い両親の間で育つ子供は
精神分裂になりやすいと言ってました。
私はは両親が揃っている方が子供は嬉しいでしょうが
仲の悪い両親の間で育つより片親のほうが断然良いと考えます。
一人でも愛情をたっぷり注いでやれば子供には通じます。

今から外出しますので何かあれば追記します。

| デイヴィド・ボーム/カール・プリブラム | 12:51 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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