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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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正しい生活


Krishnamurti@krishnamurtibot

正しい生活とは、社会のモラルに従うことではなく、羨望、貪欲、権力の追求など反感や憎悪を生む一切のものから自由になることである。これらからの自由は、意思的活動ではなく自己認識を通じてこれらに気づくことによって生まれる。


新生活様式がいかに陳腐で馬鹿げたものかわかるでしょう。
奴隷へと突き進む道とも知らず、「新しい」に飛びつく人々。



| クリシュナムルティ | 20:29 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「何も知らない向こう岸」


Krishnamurti@krishnamurtibot

あなたが何も知らない向こう岸、理知にたけた思考によっては補足できない別の次元から歩き始めてみたまえ。




| クリシュナムルティ | 00:16 | comments:1 | trackbacks(-) | TOP↑

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注意力


Krishnamurti@krishnamurtibot

注意力とは明澄さであり、あらゆる思考をはさまない澄んだ直覚に他ならない。思考は常に死んだ過去に根ざしているから、決してそのような明澄さをもたらすことはできない。それゆえ思考は無明の闇の中の行為なのである。そしてこのことに気づくことが注意力の働きである。




| クリシュナムルティ | 00:43 | comments:1 | trackbacks(-) | TOP↑

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全的な無行為


まゆみ写真IMG_0972のコピー

クリシュナムルティ「瞑想は経験を継続したり拡張したりすることではない。経験には必ずその目撃者がおり、彼は常に過去に縛られている。それに対して瞑想は、あらゆる経験に終止符を打つことに他ならない全的な無行為である。経験的行為は過去に根ざしており、常に時間に縛られている。そこからは混乱の原因となるような行為が生まれるだけである。瞑想とは、過去に惑わされることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる、全的な無行為である。そのような行為は外部からの働きかけや問いかけに対する反応ではなく、働きかけと一体であり、それゆえ二元性がない。瞑想は経験の堆積から絶えず意識的、無意識的に浄化を行うことであり、1日のうちのある時期に限って行われるものではない。それは朝から夜まで、見る者によらずに絶えず”ひたすら見る”ことである。それゆえ、日々の生活と瞑想、宗教生活と世俗の生活との間に区別はない。そのような区別は見るものが時間に縛られているときにだけ生じる。そしてそのような区別の中に混乱や不幸が生まれるーーそれが我々の社会の実情なのである。」



| クリシュナムルティ | 23:48 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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孤独


Krishnamurti@krishnamurtibot

「孤独」とは文字通り、何者にも染まらず、天真らんまんで自由であり、そうしてばらばらではなく一個の全体として、凛としてそこにあることである。

心がまったく新しいものと出会うことができるのは、心が孤独で何ものにも影響されず訓練されず、様々な経験によって支えられていない場合に限られる。


クリシュナムルティのいう「孤独」とは違うけれど
親しくなった人に自分のことを「孤独」と言います。
「孤独」が伝わらないときは「宇宙規模の孤独」と言います。



| クリシュナムルティ | 01:04 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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すべての「しなければならない」「してはならない」を捨てる


同じようなことは梶川さんも良く書かれてますね。

Krishnamurti@krishnamurtibot

あなたは「しなければならない」「してはならない」という学校で育てられ、それによって思考と感情を破壊してきたのです。あなたはシステムや方式、教師たちによって縛られ不具化されてきたのです。だからそれらすべての「しなければならない」「してはならない」を捨てなさい。


「しなければならない」については
むかし、友人たちと良く話しました。




| クリシュナムルティ | 01:38 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「柱につながれた動物のように」


まさしく今のコロナ世界

Krishnamurti @krishnamurtibot

信じやすい人々は、与えられるものの正邪善悪におかまいなく、常に進んで信じこみ、受け入れ、従おうとする。信ずる精神は探究心とは違っており、それは公式や原理原則の限界を出られない。それはちょうど柱につながれた動物のように、ロープの範囲でしか動きまわれないのである。




| クリシュナムルティ | 14:42 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑

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絶えずひたすら見ること


「瞑想は経験の堆積から絶えず意識的、無意識的に浄化を行うことであり、一日のうちのある時間に限って行われるものではない。それは朝から夜まで、見る者によらずに絶えず”ひたすら見る”ことである。それゆえ、日々の生活と瞑想、宗教生活と世俗の生活との間に区別はない。そのような区別は見る者が時間に縛られているときにだけ生じる。そしてそのような区別の中に混乱や不幸が生まれるーーーそれがわれわれの社会の実情なのである(クリシュナムルティ)」

| クリシュナムルティ | 00:22 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「直接見る」


「ここにある花を思考が作り上げたイメージでもって見ることと、そのようなイメージを交えずに直接見ることとは全く違うことである。観察者は、花のイメージを介して花と関係しており、ゆえに両者の間には大きな距離が生ずるのである。イメージがないときにはじめて、時間の隔たりが消えてなくなる。(クリシュナムルティ)」


クリシュナムルティの言う「直接見る」は
直感と直観」で書いた「ダイレクトに観る」と同じかな。



| クリシュナムルティ | 23:29 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「沈黙」


「沈黙はあらゆるものの本源である。・・・われわれが沈黙に耳を傾けないのは、われわれの耳が精神のざわめきでいっぱいになっているからである。愛があってもそこに沈黙がなければ、それは思考の手にかかって、羨望をその基盤とするような文化を持ち、人間の頭と手でこねあげられた神々を崇める社会のなぐさみものにされてしまうのである。沈黙はあなたのまわり-あなたの中、そしてあなたのとなりにある(クリシュナムルティ)」


沈黙ではないけれど、
私は昔から「宝ものはいつも目の前にあるよ、
探し求めているものは遠い宇宙の果てじゃなく、
ほら、足元に転がっているよ」
と人に伝えてきました。

それでイラスト・エッセイ集のタイトルを。
目の前の贈りもの』とつけたのです。



| クリシュナムルティ | 00:42 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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