昨日の続きです。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200901/08/62/b0086362_17444045.jpg',400,300,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/> 昨日と同じ写真に見えるけれど別の写真です
原子論的考え方がもたらした混乱を克服するにはウェーバー「ところが奇妙なことは、人類全体のことを語りながらそれにもかかわらず、浄めなければならないのは個人自身だということです。(それが他から分離した個人自身が第一にあって派生的第二次的でない、という確信を作り出すように思えます。)ところで個人は自分の何を浄めるのでしょうか。普遍的意識の中で自分が占めている片隅をですか。」
ボーム「その通りです。この問題は非常に微妙です。
個人がある意味で宇宙全体に直接近づく権利をもっていると言えるのですから。だから普遍的意識は個人を通して浄められなければなりません。浄めることを始めなければなりません。」
ウェーバー「個人はある意味では自分の占めている片隅だけを浄めるのですね。」
ボーム「いえ、そうではありません。個人はその片隅を超えて進みます。個人は人類の意識のこの顕前化を含む現実態(アクチュアリティ)ですが、しかしそれ以上です。すべての個人は特殊な接触をもっています。すべての個人は内蔵秩序と、われわれの周りをとりかこんでいるあらゆるものとの総体的な触れ合いの中にいます。だからある意味では個人は人類全体の部分であり、別の意味ではそれを超えることができます。」
ウェーバー「個人は普遍的意識のための焦点ですか。」
ボーム「人類を超える何ものかのための焦点です。」
ウェーバー「わたしにとって困る逆説があります。もし顕前化しないものの集合体が葛藤の根本起源であるとすれば ― それでもし聖人が、そうですね、聖人のような人が高潔な徳を成就すれば ― 先生がいわれるように全体が汚染から浄められていなければならない。ところが事実はそうなっていません。それはなぜでしょう。」
ボーム「そのためにはもっと高いエネルギーが必要だと思います。それはちょうど原子の変容に似ています。初期には少数の原子が変容し ― それを起源の変容と呼んでいいでしょう ― それから炎のように拡散し ― 力と連鎖反応が生まれた。このこと(内部エネルギーと叡智についてこの原理)を見てとる個人は、
原子の変容を発見した人に似ています。
原理上はその人は既に人類を変容させていますが、それがまだ現れてきていない。いいですか。」
ウェーバー「何とも理解しにくいので、もう少し説明して下さいませんか。」
ボーム「人類の意識全体にまで拡がるにはもっと高いエネルギーが必要です。しかし彼は人類の意識の原理には達しているのです。いいですか。」
ウェーバー「しかし現実に達したのであって、単に理論上ではないはずです。」
ボーム「現実にです。しかし全体に到達するためには、いわばあらゆるすべてを炎上させるためにはまだエネルギーが足りません。まだ少し濡れています。」
ウェーバー「何故ですか。」
ボーム「何世代もの汚染で湿っているからです。」
ウェーバー「かれには負担が重すぎるということですね。」
ボーム「何世代にもわたって続いたこの広汎な汚染のために力不足です。しかしこの汚染は焼き尽くすことが可能です。かれ個人にとっては既に焼き尽くされています。要は個人が与えうる以上のもっと強力なエネルギーが必要だということです。そのエネルギーはどこからくるのか。
わたしが提案するのは、近い関係にいて、しかもその関係をずっと持続させてきて互いを信頼しうる仲になっている個人なら、大勢が一緒になって、人類という個人の集合全体を一つのこころ(マインド)にすることができる、ということです。別の言葉で言えば、あの意識は一つである。一つのものとして働いているということです。本当に先に述べた親密な関係にいる人が十人、百人といれば、一人よりはるかに大きい力をもつでしょう。」ウェーバー「それは算術的に加えたものではないから。」
ボーム「そうです。」
ウェーバー「加算とは違って増強し高めあっていく。」
ボーム「激しく増強していきます。それが人類のこの意識全体を本当に炎上させ始めると思います。それがこうした効果をもつものです。一人の人でも強大な熱情をもっていれば計り知れぬ効果をもちます、ヒットラーのように。但しかれは破壊の力の効果でしたが。ヒットラーの熱情をもつ十人の人がいて協働したとすれば、誰も阻止できなかったでしょう。」
ウェーバー「それは共鳴のようなものでしょうか。」
ボーム「私はその類比を使うつもりはありません。先の話について一言言っておきますが、ヒットラーはいうまでもなくただ汚染を付け加えただけです。ヒットラーも一般大衆も人類の意識ということに含まれているものに無知だったからです。それはわれわれが知ることをはるかに超えていますが、わたしが主張しているのはただ、この考え方をとると意識は深いところで一つであり、人類の全体であるということです。しかし人類の部分としてのどの個人でも、意識の部分内部で一つ(ワンネス)であることを確立するでしょう。そしてもしも十人の人が、それぞれ自分の意識を一にすることができたなら、それこそは全体へと拡がり始めるエネルギーとなるでしょう。」
ウェーバー「そして全体を変化させる。全体の何かを変化させ”ざるをえない”。」
ボーム「そうです。何をかです。 ― あるいは多分深いところで。」
ウェーバー「深いところでです。だから先生の主張は、すべての中心は意識だと人々が悟るところから始まる。それまではわれわれのやってきたことは望みがない、ということだと思います。いわば間違った領域で小さな社会問題を提出してきただけですから。」
ボーム「そうですね。本当は問題の根源には全然迫っていないのですからね。」
ウェーバー「ええ。だから古代人が「自分自身の救いを見出す」と呼んだようなことは、もはや問題ではなく、残りの人類全体への責任のほうがはるかに問題だということになりませんでしょうか。」
ボーム「個人の救済は現実にはたいした意味がありません。先に指摘したように、人類の意識は一つであり、本当に分割できるものではありませんからね。個人はそれぞれある責任を持っていますが、それは個人的に”責めを負う能力”(アンソラビリティ)とか罪とかいった意味ではありません。本当は人類全体のためにすること以外は何一つないという意味です。それ以外に出口はないということです。人類全体のためにすること、それこそが絶対にするべきことで、他のことは何の意味もない。」ウェーバー「先生が意識全体と個人の結びつきを分析された、まさにその道のゆえにですね。」
ボーム「わたしのこの考え方はまったく間違っているかもしれませんが、わたしが言ったことが正しければ、それ以外に可能な道は何一つありません。」ウェーバー「よく分かりました。大変挑戦的な世界観のように思います。」