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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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ニュースを少し


オーストラリア(ニュータウン周辺)で6日、ミステリーブーム
照明弾のような緑色の光と爆発音(隕石?)
米サウスカロライナでも13日にミステリーブーム

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ドイツでは深さ50センチの霰が積った地域もある
アイルランドは豪雨、低温、風
バーレーンはこの時期珍しい強風
米国では相変わらずトルネードが多い
ケンタッキーはハリケーン並みの嵐

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手のひらサイズの超ミニヘリコプター
http://jp.epochtimes.com/jp/2009/05/html/d99723.html
『とっても可愛い手の平サイズのミニヘリコプターが誕生した。フィギュア・コレクションかと思わせるほどの小ささだが、この世界最小「マイクロコプター」は、超小型のビデオカメラを備え、将来はスパイ活動や戦場偵察などに利用できるというスグレモノ。』

マリフアナの「有効成分」量、初の平均10%超え 
http://www.cnn.co.jp/science/CNN200905140031.html
『押収されたマリフアナに含まれる有効成分「テトラヒドロカンナビノール(THC)」の含有量が2008年、平均して10.1%と、初めて10%を超えたことが、米国家麻薬管理政策局(ONDCP)が14日に発表する報告書で明らかになった。

捜査当局が押収したマリフアナに含まれるTHC量については、毎年ミシシッピ大学が継続的に調査を実施している。THC量は1983年までは4%未満だったが、80年代半ばから上昇し始め、2003年に4.8%、2007年には7.3%に増えていた。 中には、30%を超えているものもあった。ミシシッピ大学の分析者は、今後5─10年で平均値が15─16%に達すると予測している。』

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祝詞

先ほど二回目の祝詞しました。
なかなか降りそうにないのでしばらく続けます。


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ランチで食べたこの天然酵母の玄米パンは
生地に黒ゴマが練りこんであって中にサツマイモとチーズ
もう一つは真っ黒な黒ゴマ餡入り(写真なし)


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疲れる人


ご存知のように、
相変わらずわけのわからない酔っ払いのようなコメントを書く
出入り禁止のミッシェル(M)さん。
最近はMに落ち着いていますがいのころさんとこではクワバラ。
彼は過去何度もHNを変え、私は彼に多重人格になると言ってきました。

彼のコメントを読むだけで非常に疲れます。
返事しようとするとものすごくエネルギー使います。
このなんともいえない疲れは、程度が低すぎるだけだとは思えなくて
錯乱してるのか迷走してるのか、やっぱり彼は病気としか思えません。
精神を病んだ人との接触は疲れます。
ということで、この異様な疲れの害が読者に広がらないためにも
昨夜と今日のコメントを三つ削除しました。
今後意味不明のコメントはどんどん削除していきます。

少し前に紹介した河合隼雄さんの新しい本のお話を再度書きます。
相手がごく普通の話をしてるにも関わらず
河合さんの疲れがひどい場合は病気が重いとおっしゃってた。
あと、解離性同一障害の人と接してるときも非常に疲れると。

これを思い出しました。

病気の言葉を使うに当たって誤解のないように言っておきますが
いわゆる病気と診断されていない人の病気のほうがやっかいだと思ってます。
病気と診断された人に、まゆみ風カウンセリングをした話を書きましたが
皆さん、繊細で純粋で思いやりがある優しい方ばかりでした。 
これは私の体験でわかったことです。
ただし重症の人とは接したことが無いのでわかりません。

そういう私もある人からみたら病気にみえるかも知れないけれど
それを言ってたら前に進まない。
対ヒトの場合は相対的なものだからです。
だからどこかで「線」を引かなくていけないと思うのです。

私の場合、他者に対して線を引く基準は迷惑をかけるかかけないか、かな。
迷惑を迷惑と思うか思わないか。
身内の場合はまた別。

「線を引くこと」について
何も考えないでいきなり書いてしまったけれど少し考えてみます。
コミュニケーションが出来ない人も該当するかな。


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そのミッシェル(M)さんのコメントを削除したあとに
セラピストのanonymouさんからコメントをいただきました。
グッドタイミングのお話です。
統合失調症の双子の兄持つ森さんのコメントも合わせて紹介します。

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Commented by anonymous at 2009-05-15 12:56 x
ユングという名前が出てきたのでコメントします。私が最初に心理学に興味を持ったのは、故河合隼雄先生の著作との出会いがスタートで、そこからユングに興味を持ったことがきっかけでした。

いのころさんの文章を読んでいても感じましたし、いのころさん以外の方のコメントやブログを見ても感じていることなのですが、現代人の多く、特に宗教や精神系の教えによりどころを求めようとする多くの人の傾向として『内面のパートの分裂、不統合』を感じます。(この傾向が著しく進んだ場合、病気としての多重人格とか統合失調症になります。多くの現代人が、内面的に病気と健康のスレスレの線上にいるように感じます。)

人は誰しも、様々な『パート(部分)』を自分の中に持っています。顕在意識においてその中心は『自我(エゴ)』であり、無意識や集合無意識まで含めた中心は『自己(セルフ)』であるとユングは提唱しました。
そして、人として内面成長して自己実現を果たしていくプロセスとは、その『自己(セルフ)』をしっかりと強固なものとしていき、あっちこっちへ分裂気味のパートを、自分の中で統合していくプロセスだと、ユングは考えました。

たとえて言うなら、自己(セルフ)とはオーケストラの指揮者のようなものです。指揮者がしっかりしていなかったら、各演奏者はテンデバラバラ、勝手なリズムで勝手な音を出して、ちっとも美しくまとまった演奏はできないですよね。

自己(セルフ)がしっかりと強固なものであり、自分の内面において全体の指揮者としてしっかり指揮をとっている状態であれば、その指揮者の役を外に求める必要なんてないのではないでしょうか?
その指揮者に自分でなることを放棄して、外に求めるからいつまで経っても、本当の満足感が得られずに、あちこちに『真実』を求めてジプシーを続けることになるんじゃないでしょうか?

ユングが生涯かけて提唱した内容を、ひとことでまとめるのは不可能ですが、下記のURLの文章が、比較的コンパクトに分かりやすくユングの考えをまとめていると思います。
ご参考までに。
http://saido.at.infoseek.co.jp/jung.html

Commented by 中嶋森 at 2009-05-15 14:22 x
統合失調症の2人の双子の兄を持つ者です。私もユングは好きです。河合隼雄氏も好きです。特に女性として、氏が監修されたエリックノイマンの「アモールとプシケー」は思い出深いものがあります。ただ、フロイトの手法がもはや現在の臨床的な精神医学では有効でない、と言われていると同じく、ユングもまた同じではないか、という風に感じています。勿論、古典として素晴らしいということは、今現在にまっすぐつながっている源泉でもある、ということですけども。とにかく精神病理学こそ、時代に応じた臨床における研究者の声が生かされていなければならないと思うので。好みの問題ですが、私は木村敏氏が好きというか、肉親に統合失調症を持つ者としても説得力がある、という風に感じていますが、本当はもはや木村敏氏も時代遅れだってことにならなくちゃいけないんでしょうけど。。。

anonymousさんの文章、いつも楽しみにして拝読しています。ただ、何となく今回の例え、「自己とはオーケストラの指揮者」というのは少し違和感を覚えました。外に求める必要がない、というのは本当にその通りだと思うし、意味なさろうとしているところはわかるのですが...。

厳密に言うと、指揮者には大抵「楽譜」があるわけで、勿論それをどう解釈するかが、指揮者の個性につながるのですが、ただ、ひとは作曲しながら演奏している、さながら即興演奏家なのではないか、って思うのです。私は兄たちが病気で、私が病気でない、と言えるんだろうかっていつも思っています。なので「俺は病気か?」って訊く兄には、「兄ちゃんが病気じゃないと思うなら病気じゃないんじゃない?ただ生きている上で必要以上に支障があるなら、それは解決しようとしていかなくちゃいけないよね」って言っています。

「分裂気味のパートを自分の中で統合していく、っていうのもわかるんですけど、「統合」っていうことばがどうも肌に合わないんです。統合にはそれこそ楽譜のような、ある種の図面や計画といったガイドが必要なわけですが、例えば、社会通念というガイドをもとに統合していくっていうのが、おそらく常人のするところなんだと思うし、それができたら社会とうまく調和がとれて苦労は少ないかもしれないけれど、それが本当にいいのかどうか分からない。

ハーモニー(和音)にも「不協和音」っていうのもありますし、結局「統合」を誘う「価値」というものと、その実存・生とは別次元のものかなって思うんです。「統合」を生む「価値」はいつだって生理(生そのもの)に遅れてくるものだと思うので。

データになるには複数の例や平均値が必要だし、研究対象とされるのは常にある集合体であるわけですが、精神医学こそは、1人の人の唯一の生そのものに寄り添う学問であってほしいと思いますし、病気か病気じゃないかは社会の秩序が決めることで、それは精神医学の本来の仕事ではないと思います。答えのない問いを共に生きること、揺れ動くヒトの心と共鳴すること、それが精神医学の役割だと思う。精神に対して答えを出すことではなくて。だから、私は「あの人病気だよ」みたいに、自分が正常だって立場からモノを言いたくないのです。自分だって病気かもしれないですから。

だから、リスクを取って発言しているまゆみさんや専門家のanonymousさんの真意を真似ずに、ことば尻だけをを真似て「あのひと病気だよ」なんて軽はずみに話題にするのはやっぱり避けたい。病気か病気じゃないかは、本当にデリケートな問題だから。

Commented by anonymous at 2009-05-15 15:23 x
中島森さんの書いてくださったこと、ご自身の直接的なご経験からの言葉で、とても説得力があり、また心に響くものでした。ありがとうございます。

このように様々な角度、様々な経験にもとずいて、色々な意見が寄せられるところが、こちらのブログの素晴らしいところだといつも思っています。

こちらのブログには、毎日とても多くの方が読みにいらっしゃっているとのこと。
その中には心理学にお詳しい方や専門家の方、あるいは中嶋さんのように実体験としてお身内を通しリアルな体感をお持ちの方もいらっしゃるでしょうし、またユングという名前すら聞いたこともないという方もいらっしゃるでしょうし、そんなことには興味すらないという方もいらっしゃるでしょう。

そういった様々な立場や考えの人達が、それぞれに色々感じ、また考えるきっかけをこの場を通して得られているということに素晴らしさを感じます。

このよう場を作り出してくださっているまゆみさんに、心から感謝しています。

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つづく

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ここでも矛盾の世界、弱くなった人間


こちらでも言葉と行動が違う事件が発生。
つながっている。
”矛盾”がどんどん表に出てくるね。


ピースボート護衛受ける ソマリア沖
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090514/plc0905140140001-n1.htm
『海賊対策のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛したことが13日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張とのギャップは議論を呼びそうだ。』

国際交流NGO・ピースボート
http://www.peaceboat.org/index_j.html
『ピースボートは、みんなが主役で船を出そう!を合言葉に集まった、好奇心と行動力あふれる若者を中心に、世界各地を訪れるクルーズを企画しているNGOです。』


背に腹は変えられないと思ったのか、
海上自衛隊派遣反対は単なるポーズなのか、
それともよくある、元々、両者はつながっているのか、
とっても日本的な絵。
矛盾ってやっぱり日本の特質なんだろうね。

護衛してもらわなきゃ航行できないなら、そんな場所にわざわざ行かなければいいでしょ?
あっ、ピースボートって実は観光船でしょ?

戦争反対と言いながら戦地に出かけ、怖くなって兵士に守ってもらうのと同じじゃない?
ヤクザ反対といいながら、別の怖~い人がでてきてヤクザに守ってもらうのと同じじゃない?
ね?


みんな、よわっちい~。

21世紀を生きるにはもっとタフにならなきゃね。
繊細、且つ、タフにね。
神さまとか霊とかばかり言ってるから、いつの間にか人間が弱くなったんだよ。
昔の人はもっと強かったでしょ。


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世界を支配する王 その26


久しぶりの『ダライ・ラマの闇』です。
このシリーズは気持ち悪い内容なので初めてごらんになる方は気をつけてお読みください。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200905/15/62/b0086362_10343828.jpg',400,300,'1');" OnMouseOver="this.style.cursor='hand'"/>


『ダライ・ラマの闇』
http://www.iivs.de/~iivs01311/SDLE/Contents.htm

yasuさん翻訳による7章の続きです。

7.カーラチャクラ:内部のプロセス

The Candali
Candali(チャンダリー)

カーラチャクラタントラは、ヒンズーのクンダリーニヨガとの多くの類似を示している。これら両方の秘密の教義は、ヨガ行者のエネルギー体、つまり彼の神秘的なチャンネルとチャクラが、自らのイニシエーションの火によって破壊されることを必要とする。錬金術の法であるsolve et coagole(「溶解し、再構築する」)がここでの金言となる。また西洋の神秘主義者の間でいう、灰からよみがえる不死鳥のシナリオも知られている。この「内部の火」が、時間タントラの女性の名前をもつことは、我々の研究において特別な関心となっている。いわゆるcandaliはもともと最も低いカーストの女子のことを指すが、サンスクリット語の語源からみると『激しい女性』(Cozort、1986、71ページ)の意味をもつ。チベット人は「candali」を『熱いもの』(Tum-mo)と訳し、タントラ名人の身体における、火のような力の源を意味する。

candaliはヒンズーの炎のヘビ(クンダリニー)の仏教の姉妹として現れ、ヨガ行者の最も低いチャクラに眠っているが、いったんそれが解放されるとそれは炎の中に跳ね上がってくる。しかし仏教においては、内部の「炎の女性」の破壊的な面は、その創造的な面よりはるかに強調されている。ヒンズークンダリニーが破壊的であるというのも事実だが、彼女は創造的な原理(shakti)としても最も高く崇拝されている:「彼女は世界の母であり、世界を永遠に孕んでいる。…世界の女性とクンダリーニは、偉大なマクロコスモスとミクロコスモスの同じ様相である:シャクティは神のように全ての形作るものを織り込み、そしてそれをあらわにする」(ジマー、1973、146ページ)。

クンダリニーを起こすために必要な身体の技術は、文化的な伝統の間で変化する。たとえば仏教のヨガ行者は、内部の火をへそで解放するが、ヒンズーでは肛門とペニスの付け根の間でなされる。candaliはその腹を燃え上がり、激しく踊りながら中央のエネルギーチャンネル(avadhuti)を登っていく。あるテキストは、彼女を「稲妻の火」、また別のものは「死の娘」と言う(スネルグローブ、1959、49ページ)。その段階ごとに「熱いもの」はすべての名人のチャクラを焼き尽くし、エネルギーセンターに相応する5つの元素は、燃えるような熱さの中で破壊される。下から始まって、最初に土が臍の領域で焼き尽くされ、心臓のチャクラで水に変わる。それから水はのどの火で焼き尽くされ崩壊する。額においてはcandaliの助けを借りて空気が火を飲み尽くし、頭頂ですべての元素が空のスペースに消えていく。同時にハスの中心と一致する五感と5つの感覚物が破壊される。こうして瞑想するブッダと彼のパートナーが各々のチャクラに居場所を得るが、これらも炎に屈する。Kalachakraタントラは、「集合体の非物質化」についてこう話している(Cozort、1986、130ページ)。

最終的にcandaliは、名人の小宇宙の中に住む神を含む、その全ての古いエネルギー体をむさぼる。我々は、タントラの宇宙が類似と異体同形の連鎖からなり、存在のすべてのレベルと関連していることを決して忘れてはならない。それゆえヨガ行者は彼の不完全な人体の破壊を行うことによって、同時に最高の意図をもって不完全な世界を破壊すると思っている。Lama Govindaは、この魅力的なマイクロ?マクロコスミックな黙示録の5つのステージを解説している:「第1の段階で、燃え上がる炎の中のsusumna(中央のチャンネル)は、髪のように細い毛細管を想像させる;第2では小指の厚みになり、第3では腕の厚みに、第4では全身と同じくらい幅広くなり、まるで体自体がsusumna(avadhuti)になったような一つの燃える血管に、そして第5の段階でそのシナリオはクライマックスに達する:体は瞑想者のために存在するのをやめ、全世界は火のようなsusumna―終りのない激しく荒れ狂う炎の海 ―になる」(ゴービンダ、1991、186)。

しかし一旦彼女がその花火のような作品を完成させるとき、candaliにはいったい何が起こるのだろう?彼女は、新しく創造された宇宙の中で、ヨガ行者と平等なパートナーとして参加するのだろうか? 真実は正反対である!彼女はタントラのステージから、まるで彼女の助けで破壊された元素のように姿を消す。彼女が頭のてっぺんまで全てのハスのセンター(チャクラ)を蒸発させるならば、彼女はそこに蓄えられているbodhicitta(男性の種)をも溶かす。これはその「水のような」性格のために「炎の女性」を消す力を備えている。彼女は、実際の現実における人間のカルマムドラーのように、ヨガ行者によって追放されるのである。

タントラマスター内部の身体のこの素晴らしい火山噴火に直面すれば、彼女をして彼にcandaliに火をつける力を与えた、その魔法が意味するものが何かを尋ねないわけにはいかない。いくつかのタントラは彼女のたぎるような性的貪欲を候補に挙げている。Hevajraタントラは、「情熱の火」ついて話している。もう一つのテキストでは、「kamicな火」についてはっきりと言及している。この語は性的な喜びを代表するヒンズー神Kamaにあたる。タントラのマニュアルでは、実際の愛の行為に対応して「性交の間、Candaliは振動し、大きな熱が起こる」とされる。

性的な行為と火の儀式の同一視は、ベーダにもそれを見ることができ、タントラ仏教によっても後に採用されている。そこでは女性が犠牲の火として語られ、「犠牲の木としての彼女の下の部分、炎としての陰部、墨としての貫通と、火の粉としての結合」(バタチャリア、1982、124ページ)として語られている。ベーダの言葉の視点からは、世界は火の犠牲なしで存在し続けることができないが、「火の提供は、女のメッセンジャーdakinisとの結合から生まれる」という(Shaw, 1994, p. 254).。

Evans-Wentzの古典、“Yoga and the Geheimlehren Tibets”[ヨガとチベット秘密の教え]では、candaliの「点火」に関して特に印象的な場面を記述している。ここでは、「火の女性」は太陽の上で瞑想をする燃えるものとされている。マスターは生徒にの3つの主なチャンネル、チャクラと女性ヨガ行者の「空の形」を思い浮かべることを求めたあと、以下の通りに続けなければならない:「この段階で、あなたは手のひらの中央と足の裏の中央に太陽を想像しなければならない。それからもう片方の手のひらと足の裏の太陽をみなさい。そして生殖器の下端で、3つの主な精神的な神経[主なチャンネル]と出会う太陽を想像しなさい。あなたの手と足の太陽同士の影響で炎がつけられる。この火は、臍の下の太陽に火をつける。…そして全身は燃え出し、息を吐く時、全世界をその自然な火が実際に広がっていくと想像しなさい」(エヴァンズ-Wentz、1937、154ページ)。そして次のような疑問がある:なぜ、タントラの炎を腹へと燃えあがらせるのは女性であって男性でないのか?なぜ、大部分の文化において水の元素に結ばれている女性が、ここでは火と同等視されるのか?candaliはなぜこれほどまでに攻撃的で破壊的で怒っていて野生的なのか?しかしまず、なぜ名人が彼自身の体の「内部の女性」に火をつけるために本当の女の子を利用する必要があるのか、その理由を尋ねなければならない。外部の女性と内部の女性、カルマムドラーとcandaliのつながりがあるのだろうか?

テキストの詳細においてこれらの質問についてここで述べてみる。candaliの起源がヒンズークンダリニーのヘビであることは先に述べたが、それについて、ハインリッヒツィンマーはこう言っている:「ヘビは生命力が発達している世界と体に実体を与え、神的な世界に影響を与える力[shakti]の形である。」(ジマー、1973、141ページ)。生命、創造、世界、力:クンダリニーまたはcandaliは全く同一のエネルギーの現れで、これはヒンズー教と仏教の両方で女性とされる。したがってジマーは、神秘的なヘビを「世界の女性」としてはっきりと言及している。candaliに対応する説明も同様である。外観の世界に対する態度が敵対的である仏教ヨガ行者は、女性と出生の行為に対して、生命のもつ重荷の責任を負う。彼のにとって「世界」と「女性」は同義である。彼の想像力で心の中の女性を焼き尽くすとき、彼は積まれた薪の上に、放火魔的な暴力行為をもって象徴的に「世界女性」を投げだす。しかしこの世界は同様に、彼の古い身体と認識の感覚の集合体、精神的なムードや人間の知覚構造を含んでいて、それら全てが炎の犠牲になる。ひとたび彼が大火災によって既存の宇宙(それは女性の法の下にある)を破壊するならば、彼は宇宙の統治者の神として起き上がることができる。

タントラ教において燃える元素が女性的なものであるというのは、シンボリックな操作に近づく試みであることを証明している。インドの文化においても、女性というのはタントラでいうような火と太陽ではなく、むしろ水と月に基本的に関連があり、また関連づけられてきたことを全てが示している。非タントラ的なインドのカルト(Vedic, Vishnuite)では、性の古典的な役目がその有効性を完全に保持してきた。したがって「火の女性」の点火は、文化的な基準に反してもたらされる「人工の」試みに関したものとなる; これはヨーロッパの錬金術師が「燃える水の生産」と呼ぶものだ。本来女性的なものである水は、炎の男性的な力によって燃やされて、破壊的なものになる。我々はcandaliが火をつけられた水エネルギーというより象徴として理解されていることを後に示してみる。水はこの場合一種の燃料として用いられ、両性具有者の破壊の戦略において、火をつけられた女性原理として「爆発する」。この賢明な考えはタントラの逆転の法に由来している。Candamaharosanaタントラは、「女性は、変容の最高の炎だ」という(ショー、 1994、39ページ)。

もし女性がKalachakra儀式でその意志に反して火を受けると仮定すれば、candaliがなぜそれほど攻撃的に、破壊的に反応するかを理解することができる。一旦彼女が燃え上がると、その組織的破壊に関する全ての手順を本能的に見つけるのだろうか? おそらく、彼女もヨガ行者の裏切りの意図に野生動物のようにうすうす気づいていて、彼を皆殺しにして自由になるために、彼女の基本的で感覚的な苦しみの集合を破壊し始めるのだろうか?正確に言えば、タントラの名人が望むのは、彼が純粋な意識だけとして存在する状態に到達することなのだ。彼の最初のゴールは、彼の人体の最後の原子に至までの完全な非物質化である。このため彼は、父権的な物によるに女神の憎しみ以外の何ものでもないcandaliの火のような怒りを必要とするのである。

しかし逆に、candaliがその神と「神聖な結婚式」を祝う時に、「消費する火」すなわち女性を焼き尽くす愛の炎の支配に陥ってしまう。キリスト教の修道女は、unio mystica with Christ 彼らの天国の夫を、しばしば火に例る。Theresa of Avilaの場合、愛の炎は明解に性的なシンボリズムとの関連がある。彼女が愛の神の貫通を表した語は有名だ:「私は金の長い槍と共に彼を見た、その先端はまるで炎でできており、それが私の心臓に何度も押し込まれ、内臓を貫通するように私には思われた!...。痛みはうめ気声をあげるほど大きかったが、この過激な痛みの甘さはそれから解放されたくないと思うようなものだった」(バタイユ、1974、220ページ)。完全にそして全面的にその全存在をヨガ行者に降伏し、全ての心の愛情を彼に開いている女性も、炎のうちに燃え上がる。憎しみと神秘的な愛の両方が 高い起爆性物質なのだ。

何が女性を火の上に置くかには関係なく、この内部のステージで続く放火癖を持つドラマは、最初から最後まで「火の支配者」としてヨガ行者の管理下にある。彼は「ディレクター」としてのこの位置を決して明け渡すことはない。バジュラマスターの古いエネルギー身体と、火をつけられたcandaliそれ自身の2つの存在は、タントラ劇の終わりには常に犠牲にされる。candaliは「タントラの女の犠牲」の悲劇的な内部のシンボルで、最初は外界にあって拝火壇で実行されたことは先に述べた。

しかしここにおいても、これまで繰り返してきた度重なる警告があてはまる:ああ、名人はクンダリニーまたはcandaliを制しきれなくなる。その時彼女は「電撃のような恐るべき吸血鬼」、「死の純粋な力」になり、彼を根絶する (Evola、1926、232ペー ジ)。

つづく


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