日本人の多くが好む「人と同じ」「平凡」
自分の好みであるはずの「人と同じ」「平凡」は外部からの圧力。
長年かけてそう養育されてきた。
手も足も出ないように養育されてきた。
「みんなと同じじゃない人間」は社会を破壊する悪とみなされ、
「みんなと同じ」が好きな多数が排除してきた。
だけどそれが永遠に続くとは思えない。
どこかで歪みが出てくる。
その結果が今、目の前にある壊れた日本、日本人でしょう。
歪んだ醜い官邸の顔がそれを象徴している。
平凡化vs平均化(梶川泰司/犬のしっぽブログ)
学校ほど圧縮力のみを高めて平凡化される場所はない。
地球の自転や月の公転によって海水には潮汐力が作用して満月に満潮があっても平均海水面が存在するように、自然は圧縮力と張力(=引力)との相互作用に満ちている。自然には同時的な平凡化はなく非同時的な平均化が絶えず調和を生成している。
平均(律)化には非鏡像性や反対称性が含まれる。
早川由紀夫 @HayakawaYukio
教員養成課程で長年教えていると、教員になったあと、あずかった児童生徒をなんとかして生かそうとはせず、むざむざ殺すだろうなあと思われる学生が年々増えてきてると感じる。このところ急増しているようにも思う。
自分で考える、工夫する、解決することをいっさいしないで、これでいいですか?どうすればよいですか?と私に聞いてくる学生がとても目立つようになった。
菅野完事務所
教育を受ける義務なんてものはない。子供達が義務教育を受けているのは子供達の義務じゃあないんだ。
そうそれ。まさにそれ。「教育を受けるのは子どもの権利だ」ってのも勘違いだし、「子供には教育を受ける義務がある」ってのも勘違い。 この勘違いがあるから、クーラー以前の話として、「教育を受けてるだけでも贅沢だ」ってまちがった認識があんじゃねーかなという話。
https://twitter.com/hazamaryou/status/1020146817172848640
中島 智@nakashima001
とはいえ、表象に飼いならされた眼には、表象としてのイメージと、実在としてのイメージとの、決定的な断線がみえない。ともに〈記号的〉で、かつ〈表象的〉なのである。すなわち、どちらも〈解釈可能なもの〉にすぎなくなり、ハイデガーの云う〈不気味なもの/不可知なもの〉など捉えられなくなる。
観賞教育に関して言えば、「より深く理解できた」と言われたら失敗で、「よりわからなさが増した」と言われたら成功。「より作品に共感できた」と言われたら失敗で、「揺さぶられて悪酔いしてきた」と言われたら成功。他者に出逢うとは、そういうこと。
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太陽とケイコムーン @amazakeiko
工作ができたひとから水筒のお茶飲んでいいよって先生が言った、ぼくはできなかったから飲まなかったと、朝持たせた重さのままの水筒を息子が持ち帰ってきた。一日何も飲まず過ごしたと。まだまだ「赤ちゃんで表現力も判断力も行動力もない」子どもを、守るのは大人だ。ちょっと先生と話してくるね
てる @miss_g_kei
おどろいた。 次女。社会先生が「日本の学校はあまり勉強されたら困るようになってる。勉強されたらいろんな事が分かってしまうから。だからちゃんと学ぼう」と言ったそうだ。 「授業中でも飲みたくなったら好きなように水分を摂れ」とも。 『先生』だ。
チャビ母 @chubby_haha
アメリカの小学校では授業中に自由にトイレにいけるし水分補給も自由。 考えてみたら子供が先生に「許可」を求めるってアメリカではあまりないなって。許可じゃなく「宣言」。トイレ行っていいですか?じゃなくて行ってきます。そう考えると、許可制って自分で判断する力が育ちにくいんじゃないかな。
| 日記 | 15:09 | comments:2 | trackbacks(-) | TOP↑