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あいさつ

表紙の写真の作品は、2003年に制作したものです。
尚、当ブログの記事の引用・転載は必ずリンクを貼ってください。


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沖縄戦孤児と朝鮮人慰安婦


日本軍慰安所マップ
https://wam-peace.org/ianjo/

よくまとめられてますね。
日本軍慰安所マップには証言も載っています。

とんでもない数の慰安所に驚きました。

日本軍慰安所マップ
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沖縄県・慰安所マップ
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たくさんの方に知ってもらいたいので
多くを転載させていただきます。
論文など全文はリンク先でどうぞ。

一枚の写真が物語ること - 沖縄の孤児院で働いていた女性たち - 沖縄戦孤児と朝鮮人慰安婦
http://battle-of-okinawa.hatenablog.com/entry/2019/05/01/060917

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[ AI によってカラー化しています。]
【原文】 Life in Shimobaru, one of civilian camps established on Okinawa in Ryukyus by U.S. Military Government. Old ladies' home and orphanage. Maintained by Military Government and manned by ex-geisha girls.
【和訳】 下原での生活の様子。この地には、軍政府によって設置された沖縄本島の民間人収容所の一つ。軍政府運営の老婦人用住居兼児童養護施設。ここでは、元「芸者ガールズ」(若い女性) が労役に従事していた。
撮影地: 下原 1945年 5月 10-20日
写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館



沖縄県公文書館
ここに一枚の写真がある。

米軍が "ex-geisha girls" という言葉で表しているのは、元・慰安婦のこと。

この写真の説明書きは、元慰安婦の女性たちが、占領下にある沖縄の孤児院で献身的に働いていたことを示す数少ない写真である。

写真の左端に建物に寄りかかって両手で顔を覆っている女性、そして右側の、建物によりかかり、下を向いている女性。

どちらも表情をうかがうことはできない。

沖縄には140の慰安所が作られ、日本軍がその設立と運営の中心を担っていたことが近年の研究で明らかになっている。

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が、総じて、日本軍の「慰安婦」に関する公的資料は極めて乏しい。ポツダム宣言受諾と共に、日本政府は多くの機密資料を歴史から葬った。戦争犯罪の処分を恐れてのことである。

おそらくは全く同じ理由から、沖縄を占領していた米軍のもとで設立運営されていた沖縄の多くの orphanage (孤児院) の資料も、米軍が歴史から完全に消し去ったのか、あるいはアメリカのどこかの資料庫にひっそりと埃をかむり眠っているのか。

現在、公文書館で見ることのできる米軍の沖縄戦や戦後の米軍統治に関する資料を見ても、1945年の、米軍が運営していたはずの孤児院の写真は数えるほどしかない。

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毎日たくさんの孤児たちが亡くなっていたと伝えられている、米軍統治下の孤児院。どういう状態でどれだけの子どもたちの命が奪われたのか。米軍が運営していたのだから、米軍の資料がほとんどないというのは、まったく奇妙な話で、

それは、日本軍がその中心的な役割をはたしていたはずの慰安所運営の資料が焼却され、ほとんど残されていない、というのにも共通している。

孤児たち、そして慰安婦たちの存在は、日本軍と米軍によって、歴史から意図的に消し去られようとしてきたのだ。

だから、ある意味この写真は、現時点で、沖縄戦孤児院で働いていた元慰安婦の女性たちの姿を今に伝える、奇跡的な写真といってもいい。

Shimobaru (下原) で撮影されたとあるが、米軍は、いまの泡瀬のあたりをシモバルと呼び、そこに米軍は拠点を構え、ぞくぞくと住民を送り込んだ。

沖縄戦と孤児院の歴史研究で知られる浅井春夫氏の、名護市の田井等の孤児院と元慰安婦についての論文があるので、ここで引用したい。

近年、見つかった田井等の孤児院の写真。

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米軍管理の孤児院で、服もなく、栄養失調で、汚物にまみれて死んでいった、たくさんの孤児がいた。

【孤児院の実態について、「毎日のように山から運び込まれて来る小さい子どもたちは、裸にされていましたが、どの子も栄養失調でした。縁側に寝かされても翌朝までに半数は死んでいましたが、『シニイジ』と言いますが、子どもたちは汚物にまみれており、朝鮮の女の人たちがダンボールに入れて埋葬していました」[字誌編集委員会編(2008)『田井等誌』、p.127]という証言がある。

どの孤児院においてもそうであったが、各孤児院では栄養失調の子どもたちはせっかく戦場のなかで生き残ったのに、孤児院で死亡するケースは相当数あったことは多くの証言で確認することができる。しかし在園児童の死亡数に関して、正確な数字は残されていない。管理運営の前提でもある記録が孤児院に関して残されていないことは、米軍に都合の悪い記録は処分されたと考えた方が妥当であるといえよう。 立教大学学術リポジトリ - 立教大学学術リポジトリ】

【1945年ごろ、羽地村(当時)の田井等孤児院で過ごした座覇律子さん(75歳、2008年当時)=本部町=と、沖縄戦中に朝鮮人軍夫が働く港近くに住んでいた友利哲夫さん(75、同)=名護市=が証言した。当時13歳だった座覇さんは孤児院で元慰安婦だった女性らに育てられた状況を説明しており、「ササキのおばさん」と呼ばれていた元慰安婦について「日本語は分からないが、子どもたちの洗濯や世話をしてくれた。美人で、とても優しかった」と振り返った。孤児院近くにあった野戦病院でも元慰安婦の女性が看護師として働いていた。座覇さんは、孤児院を出た後に周りから女性らが慰安婦だったことを聞かされたといい、「慰安婦と言われてもまだ幼かったので、女性たちが何をされていたのかも分からなかった」と語っている。戦後、女性らが帰国する記事を見て、「当時は無事に帰国するんだと思ったが、女性が大変なことをされたことを後で知った。今、当時を振り返ると帰国後どんな気持ちで暮らしているのかと思うと胸が苦しい」と語っている[「沖縄タイムズ」(2008. 3. 16)「孤児院で子の世話」/沖縄戦当時の従軍慰安婦]。立教大学学術リポジトリ - 立教大学学術リポジトリ】

朝鮮半島から連れてこられ、解放後も、献身的に、孤児院や野戦病院で働いた元慰安婦の女性たち。米軍の残した写真からも、彼女たちの多くが、今のおよそ高校生ぐらいの年頃だったことを示している。

座間味の戦火を生き延び、やっと慰安所から解放された少女たちの笑顔を米軍のカメラがとらえた一枚。

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朝鮮人「慰安婦」には、日本名のよびながつけられた。上の3人に、日本名のトミヨと、ミッちゃん、アイコ、が加わった6人。

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